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美乃の三線日記 VOL1
じぃじぃのこと。 |
譜久村美乃 |
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青い海に青い空、赤花、三線の音に囲まれ昭和54年6月18日に沖縄の浦添市で産声をあげ、3歳の頃、じぃじぃ、ばぁばぁ(祖父母)のいるここ石垣島へ引っ越し、それから高校を卒業するまで、沖縄独特の空気と音(ね)の中で生活して育ってきた。といっても三線を片手にきれいな音で歌える訳でもなく、その音をただ聴いていただけ。
高校卒業後、教師になりたい希望から島を離れて内地(本土・奈良)へ……外は島とは違い、見るもの触れるもの全てが自分にとって新鮮で、楽しくその空気に染まっていったのを覚えている。2年間の短大生活が終わり、就職先もなく奈良で残る決意をし、バイトをしながら生活をしていた。その生活が半年……。友だちも仕事に忙しくなり、会う機会が少なくなって、自分自身の先々を考えるようになった頃、家に帰ってテレビをつけると、沖縄のこと、石垣のことが放映されていて、「おっおお」と言いながら見ていたり、「あっそういえば、夏休みきりじぃじぃの三線を聴いてないなー」とか、いつしか耳についている三線の音を鼻歌にしてみたり、沖縄の唄を口づさむようになっていた。自分の育った空気と音を懐かしく思えるようになり、平成12年9月に石垣住民に戻った。
戻ってきた当初は、周りから島ないちゃー(※島に住む本土出身の人のこと)と言われ内地の人に間違えられていた。その翌年、教師の臨時職員に就くことができ、今、石垣島にある八重山農林高校で仕事をさせていただいてます。
今私は、名蔵という島の市街地から車で20分程離れた所に住んでいます。周りには畑と山、1キロほど先には海があり、夜には無数の星が広がると星から見下ろされている様な気分になるくらい。そんなのどかな中、私のじぃじぃの三線の音がより一層、心を落ち着かせる。
小さい頃から聞いていた三線こそ、今の私を動かしている。じぃじぃは私を含め孫が21名、曾孫が4名。皆が揃いに揃うと三線の音が鳴り響き、1歳の子さえも手を上にかざし踊りはじめる。そうやって三線の音を唄を聴いて育っていく。
その音と唄を成長した今、自分のものにしたい。この暖かみのある音…と思は募り、じぃじぃに頼んだ。すると、笑って「弾いてみろ」と三線を渡してくれた。
ポロロン!? 音が出るだけで嬉しく、全く音楽にはなってない(笑)。それでも私は、何か「曲」を弾きたいため、じぃじぃが使っていた十年前の工工四(くんくんしー※三線の楽譜)を開き、三弦を指で押さえながら音を合わせ練習を始めた。
じぃじぃの三線を聴き、聴いた音と自分で弾いて出す音をつなげ、見よう見真似ではあるが、次第に弾けるようになってきた。それでも音の表現や唄の表現は、何より方言の意味がわからないと表現が難しく、その独特の持ち味が興味を一周りも二周りも膨らませていくとても不思議な力。
何か伝えたい。昔からある音、どんな時でも、どんな場でも沖縄には三線が流れてくる。じぃじぃは亡き祖母に「とぅばらーま」を歌ったらしい。「とぅばらーま」は、自分の想いを独自の節まわしで唄う八重山の代表的な民謡。まだまだではあるが、これを唄えるようになるのが私の夢となっている。
島唄を私は身につけていきたい。
自分の育ったふるさとの文化や唄の文化を自分なりにではあるが知っていき、また次の代へと繋いでいけたらと思う。じぃじぃの持ち味を孫である私が習えることは、本当に嬉しいこと。
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